こんにちは、百萬です。
食料問題はいつの時代にもありました。そして、いまも・・・
日本の「食料問題」の歴史の中で、最大級のものは何だったのでしょうか?
それは、なんといっても「米騒動」でしょう。
1道3府38県、500か所以上に及ぶ大騒動となり、軍隊まで出動して鎮圧せざるをえなくなったくらいですから・・・
一昨年に、法事で富山県の東部を訪問しました。
車での移動中、魚津市にある「米騒動発祥の地」の碑を見てきました。
今から100年あまり前の1918年(大正7年)に起こった大騒動・・・生きるために人々が米を求めて、日本中がまさに大混乱となりました。
米騒動っていったい何だったんですか?
会社の若手社員との雑談で、食料問題の話からの流れでそんな質問がありました。
そうかぁ、米騒動って すでに「538年の仏教伝来」と同じような歴史上の遺産?みたいなのかも・・・と感じたしだい。
若手社員の質問は次のような感じ・・・
①米騒動ってな〜に?
②それがなぜ、1918年(大正7年)に、富山県の漁師町から起こったの?
当時、日本中を揺るがした米騒動・・・それはまさに食料をめぐる大事件。
はたして若手社員に このことを わかりやすく伝えられるかとなると、ちょっと怪しいかも???
現代の世界的な食料問題と根っこが同じところもありそうな、100年ほど前の日本の米騒動・・・
そんな思いから、米騒動について考えてみました。
目 次
- 食料問題は、昔も今もその根っこはまったく変わらないもの・・・日本の米騒動は主食である米の需要と供給での調整の失敗ですが、その犠牲になるのは常に最貧層の人々!
- 主食の米の値段が1年足らずで3倍になったというけれど・・・この異常事態が引き起こされたのは、なぜでしょうか?
- 米騒動の起こったのが、なぜ1918年(大正7年)で、なぜ富山県の1漁師町からなのでしょうか?
- まとめ
食料問題は、昔も今もその根っこはまったく変わらないもの・・・日本の米騒動は主食である米の需要と供給での調整の失敗ですが、その犠牲になるのは常に最貧層の人々!
食料問題の根本原因・・・それは時代によって、変わるものでしょうか?
いつの時代であろうと、人は食料がないと生きられないのは当たり前のこと。
大きな視点でみれば、「人口と食料」のバランス・・・それは常に、食料をつくる人と食べる人との微妙な均衡の上に成り立つものです。
そのため、いつの時代も人類を悩ませる大きな問題でしょう。
今から100年あまり前に起きた米騒動は、日本中を巻き込みました・・・まさに食料問題の大爆発だったといえるかもしれません。
当時の米の「国内生産量・輸移入量」と、「消費量」の毎年の動きをみると・・・米は自然を相手に生産しているため、毎年一定の変動があるのは当然のこと。
けれども、1年足らずで米の値段が3倍にもなるというのは異常事態。
なぜ、そうなったのでしょう?
・・・それは、米騒動の主原因が 生産量の問題というよりは、流通 つまりは分配上の障害が一番大きな問題となりました。
そのことは、アジアで初のノーベル経済学賞をとった アマルティア・センさんの『貧困と飢饉』(1998年)に 書かれていることにも通じています。
「貧困とは常に、人間全体の貧困ではなく、最貧層への貧困の押し付けの問題である」と・・・
彼はそのことを、インドその他の豊富なデータで証明しました。
食料問題はどの地域でも、またどんな時代でも、経済的に最も弱い人々を集中的に襲うもの。
そうなると、命にかかわる非常時には、国と地方公共団体などがいかにタイムリーに行動できるかが勝負となります。
主食の米の値段が1年足らずで3倍になったというけれど・・・この異常事態が引き起こされたのは、なぜでしょうか?
米騒動は1918年当時の食料問題ですが、なぜ1年あまりで 米が3倍にもなったのでしょうか?
お米の値段・・・
今は10Kgが3,000円くらい。(銘柄でピンキリですが)
これが1年足らずで9,000円くらいになったら、どうでしょう?
今でも米が主食ではあるものの、当時に比べればご飯の消費量は大きく減少しています。
農林水産省のHPによると・・・
「米の1人当たりの年間消費量は、1962年度(昭和37年度)をピークに減少。
・1962年度(昭和37年度) 118kg
・2020年度(令和 2年度) 50kg 」
今ではピーク時の半分以下ですが、それでも世界の中ではけっこうな消費量。
まさに当時の日本人の主食だった米の値段が、わずか1年あまりで平常時の3倍になると・・・庶民がとても買えない事態になったのは、言うまでもないでしょう。
そのため、日本中を巻き込んでの大混乱になった・・・これが100年あまり前の米騒動。
ということは、当時の「人口と食料生産量」のバランスが、とてつもなく崩れたはず・・・と、誰もが思うのではないでしょうか?
ところが、当時の日本人1人あたりの米の生産量と 人口の推移を確かめてみると、米騒動の起きた前後で、桁はずれに変動した事実はありません。
むしろ、コメの供給量の方が増加しています。(供給量は、国内生産量+輸移入量-輸移出量+前年からの持越量で計算)
あら不思議・・・
当時は、1人あたりの年間消費量は約1石とされていました・・・にもかかわらず、なぜ、わずか1年足らずで、米の値段が3倍にもなったのでしょうか?
生産と消費の問題でなければ・・・残るのは「流通」の問題しかないでしょう。
これはまさに、フランス革命で「我らにパンを与えよ」と同じ。
普段はたかがパンですが、されど緊急時には人命に係わるパンなので、食料暴動から政府が転覆するまでに至ってしまいました。
食料問題というもの・・・人が生きるか死ぬかというレベルになると、恐ろしいまでのパワーを人々は発揮するものです。
産業革命期の18世紀後半から、イギリスやドイツ(当時はプロシア)でも、食料暴動が何度も起きています。
たしかに、人口の増加と食糧生産量のバランスが崩れた年に暴動が頻繁に発生しています。
けれども、需給のアンバランスの割合以上に、価格が大変動するのは・・・やはり流通上の問題が立ちはだかっているからです。
これは、昔も今も根っこが同じ・・・とても悲しいこと。
米騒動の起こったのが、なぜ1918年(大正7年)で、なぜ富山県の1漁師町からなのでしょうか?
富山県の東部・・・海岸沿いに位置する魚津市に、1918年(大正7年)に暴動が全国化した 「米騒動の発祥の地」があるのを、ご存じでしょうか?
海岸からわずか数十メートルほどの場所に、当時の大きな米蔵が建っています。
富山県では明治時代以降、大型船で米がドンドン県外に移出されることに。
当時 近海での漁がたいへんな不漁となり、漁師たちは遠洋漁業に長期間出かけるため・・・家を守る妻たちは、米俵を 米蔵から浅瀬の小船まで運びました。
いいお金になるのです・・・
自分の体重の1.5倍もある米俵を数十メートル先まで、1日に何度も運びます。
それが当時の港町で普通に見られた光景。
折からの米価高騰で、漁師の妻たちは何をどう思ったのか? そしてどのように行動したのか・・・
ところで、なぜ富山県の漁師町から米騒動が始まったのでしょうか?
1918年(大正7年)当時、激しく値上がりした米を、国民は何とか手に入れようとしました。
その中で、魚の乱獲で近海での漁ができなくなった漁師たちは、遠洋漁業で北へきたへと・・・当時の漁師の収入は最下層の状態。
夫の不在時に家を守る漁師の妻たちが・・・ひもじい思いをしている子どもたちを毎日見て、何を思い、何を考えたのでしょうか?
富山県魚津市の米騒動を映画化した『大コメ騒動』(2021年)では、漁師の主婦たちが命をかけて行動した姿をリアルに描いています。
その行動が最終的に役場を動かし、貧民の救助へとつながっていきました。
当時の役場資料からそれは明らか・・・
富山県の米騒動は貧民による行動が勝利につながった例・・・
そうでない県の米騒動では救済があったのでしょうか?
※ 映画「大コメ騒動」については次が参考になります。
よかったら、ご覧ください。
hyakuman-amane.hatenadiary.com
まとめ
食料問題・・・
それは、1万年まえに人間が発明した定着農耕生活に始まり、今も同じ「人口と食糧生産量のアンバランス」が発生するたびに起こる問題。
食料生産方法が18世紀半ばから科学的になり、食料が世界規模で爆発的に増え続けることに成功・・・同時に、人口爆発。
世界の人口が100億人になるのも・・・まもなく。
食料の生産・流通の関係者が日々、この問題を解くために努力してくれています。
今後の活躍にさらに期待したいと思います。
・食料問題は、昔も今もその根っこはまったく変わらないもの・・・日本の米騒動は主食である米の需要と供給での調整の失敗ですが、その犠牲になるのは常に最貧層の人々!
・主食の米の値段が1年足らずで3倍になったというけれど・・・この異常事態が引き起こされたのは、米の流通上の障害があったため!
・米騒動が1918年(大正7年)に、富山県の1漁師町から起こったのは・・・食糧問題はいつも「最貧層の人々」の「命にかかわる大問題」だったから!
ご覧いただき、ありがとうございました。
なお、「中高年の関心ごと・・・食料問題」シリーズの直近のものは、次のとおりです。
よかったら、ご覧ください。
<その2>・・・「食糧問題っていつから始まったの?」編
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<その1>・・・「食糧問題って何?」編
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