hyakuman_amaneのブログ

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【 2024年に新1万円札の顔になる「渋沢栄一」さん! 子や孫からみた素顔とは? < 歴史の1シーン : その2>】

 



こんばんは、百萬です。

 

2年後に紙幣の顔が変わります。

1万円札はなんと40年ぶり。その人は渋沢栄一さん。

 

休日に古い書類を整理していたら、学生時代のノートの間から、なんと 聖徳太子の1万円札が1枚出てきました。

完全に記憶から消えていました・・・

 

40年前にこの1万円札があったなら・・・きっと、すぐに飲み仲間とパア〜と使っていたはず。

ちなみに、ヤフオクの平均相場を見たら、この聖徳太子のお札が32,000円くらいほどに。なるほど・・・

 

それはさておき、そんなことがあったので、新1万円札の顔になる渋沢栄一さんについて、いろいろと想いを巡らせました。

 

というのも、当時 卒業論文を作成するときに、渋沢栄一さんに関する資料をけっこう読み込んだことがあったため・・・

日本が明治時代から 急速に経済発展する前提条件をつくって、当時でも日本資本主義の基礎をつくった人と評されていました。

その意味では 分野は違うものの、同時代の福沢諭吉さんと評価はいい勝負かも?

 

新1万円札の顔になるくらいですから、それにふさわしい功績がたくさんあったはず。

それでこの度、渋沢栄一さんに関する本を久しぶりに何冊か読んでみました。

 

学者や研究会が評する 渋沢栄一像はほぼ固まっています。

そのため、今回は 子や孫が渋沢栄一さんをどう見ていたのか?

どのような思い出があるのか?・・・などを中心に確認してみましたので、お知らせします。

 

目 次

 

渋沢栄一研究会の『渋沢栄一の生涯」(2020年)という本では、やっぱりその功績を絶賛!

横浜市立図書館の蔵書より引用)

 

渋沢栄一さんが明治時代以降に、いったい何を行ったのかについて、頭を少し整理するため、この本のあらましを・・・

 

この本では、渋沢栄一さんの功績を大きく6つに分けています。

・日本ではじめて株式会社という会社組織をつくった

・その後、通算500社を超える企業を設立した

・銀行をつくって、新たな企業に資金を融通する仕組みを確立した ( 金融制度のはじまり )

・160以上の学校の設立に関わった

・生涯にわたって社会福祉事業に尽力した

・民間外交のパイオニアとして大活躍した

 

この本全体を通して言えること・・・

それは・・・渋沢栄一さんは、当時 経済面でかなり遅れていた日本が、海外先進国に追いつくために執念を燃やした。

そして 海外の先行例を参考に、日本で必要と考えた事業を その先頭に立ってみずから具体的に押し進めたということ。

つまり、たんなる評論家ではなく、何があってもあきらめない実践家としての評価!

 

渋沢栄一さんの凄いところ。

それは 自分がいいと思ったことは、凄いスピードですぐに自らどんどん実践するところ。

その成果は、明治時代以降の日本の国内総生産が、倍々ゲームのように増えていったデータから間違いはなさそう・・・

 

ところで、若いころの渋沢栄一さんは・・・

20代の前半を、尊王攘夷運動に捧げています。そんのう じょうい?

これは、徳川幕府中心をやめて、天皇を中心として 外敵である海外先進国を日本から追い出そうとした きわめて血気盛んな活動家としての一面。

 

けれども、歴史は予期せぬ方向に動きます。渋沢栄一さんはその後、最後の将軍 徳川慶喜の後ろ盾である一橋家の家臣に・・・

その後、海外先進国の政治・経済・文化などを視察するために フランスを訪れるなど、さらに特異な運命へ。

 

そしてフランス遊学中に、徳川幕府から明治政府へと変革されたことを知ることに。

日本に戻り、いったんは明治政府の官僚となるものの満足できず、辞任して民間の商工界において さまざまな改革に乗り出した・・・

 

 

なお、渋沢栄一さん自身による『論語と算盤(そろばん)』(大和出版、1985年)によれば、渋沢さんは次のように書いています。

 

渋沢栄一さんは農家の出。17歳の時に志士になりたいとの志を持ちます。

・その後、激動の時代を生きて、実業界で身を立てようと決心したのは1912年(明治45年)。それまで無駄にした時間を取り戻すべく、一生をかけて産業界の発展に全精力を傾けた・・・

 

・「論語と算盤(そろばん)」とは、国が栄えるには、道徳(論語)と経済(算盤)を調和させなければならない、ということ。

・そして、理論と実際、学問と修養とが互いに並行して発達しないと、国家が真に興隆しない。

・・・と書いています。

 

子である渋沢秀雄さんの『父 渋沢栄一』(2019年)では、渋沢栄一さんの長男が「父には とても ・・・かなわない」とのコメント!

横浜市立図書館の蔵書より引用)

 

長男である秀雄さんのコメントを拾ってみました。

 

・父の行動は、青年時代より儒教的な道から逸脱することがなかった。

・江戸末期の天保から明治・大正・昭和をまさに生き抜いた。精力的としかいいようがない。

・父は、常に世のため人のために 一途に行動した熱い人間と信じる・・・

 

1840年に、今の埼玉県深谷市に生まれた渋沢栄一さん。子の1人である秀雄さんが、父である渋沢栄一さんから直接 聞いた話を拾ってみました。

 

・父は読書が大好き。12歳の正月に、父は親の名代で本庄町に向かう途中、貸本屋から借りていた本を読みながら歩いていたら、熱中しすぎてそのままドブ川へ・・・

・農民出身である父は、武士からとても威圧的に御用金を強制されたとき、横っ面を張り倒したい衝動にかられた・・・後日、父が笑いながら そのように言っていた。

 

・ 20代に尊王攘夷という大義名分のもと、まずは高崎城を落とし、その足で横浜に向かって、異人館を片っ端から焼き落とす計画を立てていた。

 これは 実行直前で 未遂に終わってしまったが、この時は本当に命がけだったと、父は顔をほころばせて笑っていた。

・大蔵官僚を辞めて民間で働くと決めたとき、多くの人から考え直すように言われた。

 しかし、それを遮った時の言葉は・・・商工業者は身分が低いという誤った考えを一掃することが、これから自分の務めである、と。

 

鮫島純子さんの『祖父・渋沢栄一に学んだこと』(2010年)では、90歳になっても 最期まで世のため人のために働いたと述懐!

横浜市立図書館の蔵書より引用)

 

渋沢栄一さんは、1931年(昭和6年)に91歳で亡くなりました。孫だった鮫島純子さんは 当時9歳。はっきり覚えているとのこと・・・

 

渋沢栄一さんが90歳の時に、風邪で寝ているところに 20名くらいの人が面会を求めてきたときのこと・・・

「全国に 病気と寒さに苦しむ人たちが20万人もいます。政府は救護法という法律を作ったが、予算がないため実行されていない。何とかご尽力願えないか。」との陳情。

 

周りは 渋沢栄一さんの年齢と体調の悪さを心配して 行動を止めたものの、それを制して 大蔵大臣に自ら面会に・・・その翌年にお亡くなりに。

救護法はその後、実施されました。

 

渋沢栄一さんの母親は、当時 とても差別されていたハンセン病患者をことごとく援助された。

たとえば 共同浴場での感染を恐れもせず、ハンセン病の人たちの体を洗ってあげる人だった。

・・・こういうところに、渋沢栄一さんの生涯にわたる 社会福祉事業への尽力の原点があるのかもしれません。

 

まとめ

 

 

渋沢栄一さんの評価には、国内外できわめて高いものがあります。

経営学創始者とされるP.F.ドラッカーさんは、渋沢栄一さんを「世界で最も経営の社会的責任を果たした人」と評価。

渋沢栄一さんをさまざまな著書で褒めちぎっています。

 

今回 渋沢栄一さんの子と孫が書いた本をはじめて読んでみました。

身内のために、評価が甘くなるのは世の常かもしれません・・・

けれども、子や孫が書いている渋沢栄一のエピソードには しっかりとした確らしさが私には感じられました。

 

・学者や研究会は、やっぱり「偉大な功績」を絶賛!

・子の渋沢秀雄さんは、「父の情熱にはとても とても かなわない」とコメント!

・孫の鮫島純子さんは、「 最期まで、世のため 人のために働き続けた」と述懐!

 

あと2年後に お札の顔が変わります。これは一大イベント・・・

このようなタイミングで、その背景や意味合いについて少しだけ考えてみました。

 

役割を果たして 去りゆくお札の顔と、期待を持って 新たに迎えられるお札の顔。

一つの歴史の終わりと、また新たな歴史のはじまりかも・・・

 

ブログをご覧いただき、ありがとうございました。